春恋桜
〈文:水月陵〉
小さなお家がありました。
小さな幸せを大切にする夫婦が住んでいました。
こじんまりしたそのお家の庭には
桜の木が一本、ありました。
小さな女の子が生まれました。
夫婦はとても幸せでした。
冬の寒い夜に訪れた
神様からのプレゼントでした。
女の子はたくさんの愛情をもらって
すくすくと育ちました。
小学生になり
中学生になり
高校生になり。
悩んだり。
恋をしたり。
どんどん大人になっていきました。
* * *
女の子は
小さい時から
庭に咲く桜の木が大好きでした。
春になったら綺麗な花を咲かせてくれる
桜が大好きでした。
一人になりたい時
桜の木にもたれて時を過ごしました。
誰にも言えないことを呟いたら
少し気が楽になりました。
桜の前で撮った家族の写真が、大好きでした。
桜は
この子が大好きでした。
柔らかな笑顔が
この家族が大好きでした。
春になるといつも
たくさんの枝にいっぱいの桃色を咲かせました。
女の子の独り言も
泣きそうな顔も
ずっと見守ってきました。
いつも希望を持って自分を見上げてくれる
この子の事が大好きでした。
* * *
少し早めの春
桜は今年もいっぱいの蕾をつけました。
けれど女の子は
旅立つ準備をしていました。
家族のもとを離れて
海の向こうの学校へ行くことになったのです。
桜は元気を失いました。
はじめて寂しさを感じました。
水が体を通らなくなりました。
生きる力が無くなってしまいそうでした。
いつもと違う桜の様子に気づいた女の子は
桜の木にお医者さんを呼んであげました。
桜は
実はもう
想像もつかない程の年月を
生きていました。
寿命かもしれない と
お医者さまは言いました。
女の子は泣きました。
何故だか涙が止まりませんでした。
* * *
出発の朝
女の子は桜に手をおいて
そっと呟きました。
「がんばるね。待っててね、約束だよ?」
桜は女の子の為に
最後の力を振り絞って
たくさんの花びらを散らせました。
枝をいっぱいに伸ばして
春風をうけて。
名残り雪が
小さな虹をつくりました。
* * *
時間は流れ
季節は過ぎて行きました。
次の春には帰るよと
家族のもとへ便りがありました。
桜はまだ
生きていました。
あの日女の子の流した涙が
生きる希望となって
体を通っていきました。
あの言葉が
桜に
もう一度生きる力を与えたのです。
『この手が動いたら
この身が自由になれたら
今すぐにでも飛んでゆくのに』
桜は
そう思いながら今日も
空を見上げていました。
あの子との約束を守るために。
ただ春を夢みて。
(C)水月陵 20070216